現代戦争論1

私が『群青の空を越えて』(light)という作品について、良く出来ていると思ったところは、私の知っている過去の冷戦期の戦争の「次」のイメージを志向しているところ。


現代社会では先進国同士の戦争は起こり得なくなった。


私は、冷戦時代を実際に見ている。まだ小学生だったが、戦争が現実に起こり得る可能性が叫ばれていた時代を知っている。その頃のイメージでは、戦争を引き起こすモノはイデオロギーだった。
でも、実際に戦争を止めたのは、人道主義より何よりも、破壊力が大きくなりすぎて、勝利によって得られるモノよりも反撃によるダメージの方が大きくなってしまったこと。その黎明期として、核を持ったまま睨み合った冷戦期がある。それはまだ、表向きはイデオロギーの対立だった*1けど、その時代は、終わったのだ。


『群青』序盤のシナリオで、物語の全貌が見えないまま、戦争は続く。「荻野理論」に理想を見い出し、円経済圏構想を夢見て、学生達は死地に赴く。でも私は、これに違和感を感じずにはいられなかった。「イデオロギーでは死ねない」というのは今の私の実感だし、多くの人もそうではないかと思っている。
また、「戦争」にもかかわらず市街地を全く破壊しない戦いというのは、戦術上在り得ないのではないかと思った。しかし、逆に言えば、「市街地を破壊する」ような暴挙が現実化するのであれば、そもそも戦争という方法は取り得ないのではないか。


象徴的な場面がある。加奈子シナリオの地上戦で、司令部が電気の遮断を電力会社に申し入れるも、断られる場面だ。私は初読で、「そんなわけねーだろ」と思った。インフラの根幹も抑えられないでこいつらは戦争しているのか、と。でも、違うのだ。東京電力は世界最大の電力会社だ。そんな企業が学生なんぞに抑えられているようでは、日本経済はそもそも破綻している。東京電力は学生の動向に関わらず営業活動を継続し、電力遮断…つまり「商売の停止」を拒否するだけの強い立場を持っている。
これは後のシナリオで次第に見えてくるのだが、関東独立を狙ったのは、円経済圏の理想を求めるのではなく、首都圏の富の独占を狙った財界人だった。彼らは、そのために学生を焚きつけた。そしてこの戦争の戦死者は、本来的に戦う使命を持った自衛隊員と、「荻野理論」の「理想像」に踊らされた学生が大多数であり、一般市民や財界人は戦闘に関与しない。
この「if」の作り方は上手いと思った。もちろん今の日本で戦争は起こっていないワケだから、これはフィクション。でも、その「if」が起こり得る可能性は、「経済的利益」が無ければ在り得ないのだ。この作中の戦争は、純粋な経済的動機から生まれている。
その「見せ方」も見事。序盤で、この戦争の影の本来の野望は見えない。学生達の中しか描かない序盤の若菜・加奈子シナリオは、その学生達の外に存在する、彼らを利用して利を求める人間の姿を描かない。そして、その後にシナリオに順序を付け、夕紀・圭子という「外部」の人間が加わる二つのシナリオで、学生達の姿に対し、客観視がなされる。そして、「真相」を描くグランドルート。「荻野理論」と、この戦争を引き起こした元凶。最後に社は言う、「何の為に戦っているのでしょう」と。さあ、学生達は、何の為に戦っていたのか。


この作品の「戦争」の描写は、「今の世で戦争が起こりえるif」の描写が見事だと思う。現状の世の中で最も大切とされているモノと、戦争を忌避する理由。それらを「経済」に見い出し、「戦争」と「経済的利益」が相反しないシチュエーションがどういう状況下で発生するかという点を踏まえた、一つの仮説。日本の経済活動が継続し、「市民」に被害を及ぼさない限りなら、「戦闘」は必ずしも否定されない。人道主義は、「妄信」によって乗り越える。その担い手となるのは、経済に寄与することなく、「悪さ」を知らない「子供達」。


この作品は、「過去の戦争」を描いていないのだ。「現代日本で戦争が起こり得る可能性」を描いている。それは、当然ながら冷戦時代のイメージと一致するはずがないのだ。そこを形にしてみせた様は、見事。
もちろんそれはフィクションであって、仮説でしかない。荒い箇所もまま在る。でも、それが寸分の隙もない描写であったら、それはそれで恐ろしいコトだから、良しとしたい。

*1:今から思えば、そのイデオロギー自体が、経済的損得を抜きには語れないのだろうが