「萌えゲー」否定派として名高い(?)私だが、「純愛」については否定するつもりが微塵も無いばかりか、むしろそれを渇望してエロゲをやっているような気もする。
「萌え」と「純愛」の差は、単純にその「深度」のような気がする。



前に、こんなことを書いたことがある。

「永遠の愛は存在するかって?」
「愚問」
「永遠じゃない愛なんぞ存在するのものか」
「最終的な結末はどうであれ、それが在る間は永遠を志向しているはず」
「そうじゃないモノは愛とは呼べない」
「少なくとも、私が求めているのはそういうモノだ」

そんな私は、今2○歳だが、未だに結婚していない。もっと言えば、する予定も無い。
その理由は、私が「永遠の愛」を見付けていないからだ。



「そんなモノはどこにも無い」という人もいる。



人の感情は変わる。でもそれは、その人の「本質」を見抜いていなかったからではないか?
人は歳をとり、老いてゆく。でもそれは、その人の「外見」に惹かれているからではないか?
「その人の在り方」を愛するのであれば、それが、年月共に薄れるということがあるのだろうか?



それが、「あるはずだ」が半分、「あって欲しい」はもう半分だろうか。