皇室民営化による政皇分離論

近頃、女系天皇についての議論が活発化し、それに伴って皇室典範を改正しようとの動きが出ているようだ。正直言ってどーでもいい議論だと思うが、結局、「皇族」という人達自体のことは何も考えられていないのかなあ…とも思ったり。
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今更疑いは無いと思うのだが、皇族だって人間だ。そして、全ての人間には「人権」が認められるべきではないか?
皇太子は次の天皇にならなければいけないのだろうか?皇室典範は曲がりなりにも法律であって、それで定められている以上、それは避けられない。そう、皇太子には職業選択の自由は認められていない。皇太子以外であっても、皇族が普通の高校・大学へ行ってサラリーマンとして働く機会は、実質的に認められていない。幼少の段階から宮内庁の眼が光って、定型的な教育が施されてゆくのだ。
こんなことが許されるのだろうか?
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私見としては、次の天皇を誰にするかなど、皇室が話し合って決めればよい。その方法を国民国家が定める必要は無いと思う。歌舞伎なんかの跡取りを決めるのと同じことではないか?
ほんの60年前まで、天皇という地位は権力と結び付いていた。だから皇室典範を「法律」として国権の下に置いたのだろう。皇族の基本的人権…自由を認めることは、明治維新以降の歴史を考えれば危険性を否定できなかったからだ。しかし、民主主義思想のこれだけ根付いた現代で、天皇に何らかの政治的権力がもたらされる可能性はまず無い。あったとしてもその手続は何らかの国民的意思決定(国会・内閣の関与を含む)によらなければ現実的に不可能だろう。
今の天皇は文字通り「象徴」に過ぎない。そこに国権が直接にもたらされるとは考えにくい。なら、皇室こそ「民営化」するべきだと思うのは私だけだろうか?
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今は、憲法・法律上、皇室には内閣が直接に関与していかざるを得ない。それは、私のような人間には「税金の無駄使い」と思えてしまう。先の通り、今や、権力のコントロールという目的で内閣が皇室を監督する意義はない。国民のマスコットを維持するために国費を使う必要はないのではないか。国家が特定の人を国のマスコットにし続けることは、有体に言えば人権侵害ではないのか。
皇室に敬意を払う人に問いたいのだが、それは「国家の象徴だから」なのか、「皇室自体に魅力を感じるから」なのか。どちらにせよ、民営化されたらその敬意は失われるのか。国家が象徴を用意する意義とは何か。皇室の自立は皇室への敬意の何らかの障害となるのだろうか。
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もちろん、あの皇居を初めとする財産的特権を徐々に徐々に剥奪してゆく必要があるだろう。皇族は、「自由」の代償として、私達一般市民のような世間の荒波への対処を徐々に徐々に求められていくだろう。でもそれは、「人として」、普通のことではないのだろうか。
それで天皇の血筋が途絶えたとしても…それが皇室の意志であってもなくても、それは止むを得ないことだ。もし皇室が自らそれを選んだとしたら、私達は「人として」その選択を尊重すべきではないか。他人が「跡継ぎ」を産ませるために婚姻を強いることは立派な人権侵害であって、その結果であれば、しょうがないのではないか。
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逆に言うと、今の男系・女系天皇論は、論ずる側…一般人側の価値観の問題でしかない。今の憲法・法律上、皇室自体がそこに意見を述べることも許されていないのだが、最早、それを禁じる時代でもないのではないかと、思ってしまうのだ。