エロゲーシナリオに作家性は必要か。

昨日の話を踏まえた上で。再び、私がどーいう風にエロゲを読んでいるかということの一考察。)
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私はご存知の通り、作品をそのまま読んで終わりということはあまりなく、むしろ、その背景にある製作者のことなんかも読解(想像?)したりする。誤解を恐れずに言えば、それが面白かったりする。
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今のコンシューマ界がどうだかよくわからないが、例えばFFやDQで、製作者の個人名はあまり重要視されていないと思う。これだけ続けば、作っている人が変わっていないはずがないし、そして同時に、一人や二人が大きく影響を与えるような小さな作りをしていない。企業として当たり前にトータルパッケージを重視し、企業たるゆえに個人名を出さない。個人の手によることは、移籍によるリスクを常に背負うからだ。
そう考えると、エロゲーは特殊だ。もはや、前例上、シナリオライターの名前を出さないワケにはいかない。その一方で、ブランドがどこであろうとも、田中ロミオ監修というだけで、その作品のだいたいの雰囲気を想像でき、一定のプレイヤーを惹きつける。これは、エロゲー界が同人界と近く、企業としての製品製作よりも個人製作の色合いが強いことにも起因するだろう。
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さて…今や、エロゲーは「誰が書いたか」を抜きにして語れるのだろうか?
なかなかそれは難しい。
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その一つの理由は、コンシューマと違って、複数ライターの書いたシナリオ・テキストを総括するプロデューサー(?)の地位*1が弱い点が挙げられる*2。今もなお、複数ライターがそれぞれのシナリオを書いて、それが「別人が書いた」と容易く想像できる作品は多い。文章を総括する立場の人間がいればそうはならないはずなのだ。それぞれの個人的差異を編集し、歩調を合わせ、全体の整合性を図るということがなされていない。作品パッケージとして徹底されていないのだ。私は今まで、複数ライターがそうとわかるように書いていて、それが複数であるからこそ面白かったという作品を知らない。
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そしてもう一つは、これはコンシューマには存在しない、「作家性を読む」という楽しみ方が存在すること。
一人のライターが、二つ、三つの作品を書く。その中に存在する共通項は、そのライターの「核」だ。そのライターが何を大切にし、何を描こうとしているのか、単一作品を越えてそこを読む*3のが、一つの楽しみ方なのではなかろうか?
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さて、昨日、「人間的魅力」を楽しむという観点(「純愛ゲー」という観点)について触れた。
しかしそれは、もちろん、女性に限った話ではないのだ。男性キャラについても、それを感じさせることはいくらでも可能だ。そして…実は、「人間的魅力」を持つのはキャラクターだけに限らない。「製作者」にそれを感じない理由があるだろうか?
もちろん逆も言える。女性キャラ・男性キャラの行動・思考一つに不満を抱くように、そういった一連の行動を描き展開を招く「製作者」に対し、不満を感じることもありえる。
それは、記名の創作物であることを免れ得ないエロゲーの場合、ある程度必然ではないか。
昨日私の書いた「萌えゲー」的な「表面」の愛で方をすると同時に、「純愛ゲー」的な「内面」の愛し方へ踏み込まずにはいられないのではないか。そしてそれは、登場人物だけでなく、作家そのものに対しても向かうのではないか。
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いやあ、つくづく、エロゲ製作者というのは大変な立場だよ…。

*1:および…能力か。

*2:これは、マイナスばかりではないことも事実だと思うが。

*3:一つの作品でもそれが読めることはある。