ギャルゲーにおける「萌え」⇔「純愛」評価軸の存在について

(2006/1/15修正。以下の文章は自分がどのようにギャルゲー*1を見ているかの一考察ですので、気が向いたらどうぞ。)
どーも私の頭の中には「萌えゲー」⇔「純愛ゲー」という一つの評価軸*2があるようだ。全てのエロゲーにヒロインが登場する以上、この二つは対極の存在となっている。
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そしてその二つに求めているモノが正反対だから性質が悪い。

  • 「萌えゲー」には、まさに「萌え」を。ヒロインの愛らしさとそれを味わうことによる多幸感を。世界と各ヒロイン間の調和を。「ヒロインを視る」。主人公はヘンなことをしなければ没個性で問題ない。そして「萌え」は、そんなに深い感情ではなく、複数の対象に同時に成立する。魅力的なキャラは多ければ多い方が良く、至高の萌えゲーはマルチエンドを消化できる。深部への描写は軽快さを失うことがあり、物語性との相性は比較的悪い。「2」は世界の拡大だから、素直に受け入れられ易い。
  • 「純愛ゲー」には、「ヒロインの魅力」を。ヒロインの人間的魅力が重要。主人公はそんなヒロインとくっつくに見合う奴が必要不可欠。「ヒロインと主人公の関係を視る」。「純愛」は、社会常識上、一人の対象にしか存在しないことから、単一エンド志向が強まる。その作品のNo.1ヒロインを掲げることは必須。緻密な描写がヒロイン像を作り上げてゆくことから、物語性と相性が良い。「2」は完結した物語を掘り返すことから、あまり受け入れられない。

「萌えゲー」の典型は、『パティシエなにゃんこ』『ToHeart2』『サフィズムの舷窓』あたりか。
「純愛ゲー」の典型は、『腐り姫』『鎖−クサリ−』『家飛!』あたりか。
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この「萌え」⇔「純愛」ベクトルについて、先の『おすめす☆たいむすりっぷ!』にて検証してみる。
私はこの作品のレビューに「萌え」という言葉を多用している。過去最多であることは間違いないだろう*3。では、今作の主人公、真澄たんはなんでこんなにも萌えるのか、そしてその一方で、なぜ、私は真澄に「惚れた」と表現していないのか。
これはまったく無意識的に自分で使い分けていたのだが、真澄たんを「愛する」ことは、私には出来ないのだ。その理由は、皆さんおわかりだろう、真澄たんは、精神的に♂だから。逆に言えば、「萌え」は、精神が♂であっても真澄たんが女性体であるが故に成立したのである。
これは本当に今気付いたのことだが、「萌え」と「恋愛感情」の差を示すケースだ。私にとって、「萌え」が如何に「表面」に対する感覚であり、同時に、「恋愛感情」が如何に「内面」に基づく感覚であるかの、実に顕著な例である。
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あともう一つ、「萌えゲーにシナリオは必要ない」ということの一つの証明となる作品として、『青い鳥 L'Oiseau Bleu』(ぱんだはうす)は特筆しておきたい。
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この、「萌え」⇔「純愛」評価軸と、それに伴う作品構造性の不整合を感じたことにより、私の評価を落とした作品はけっこう多い。
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以上、私の好みがどちらかといえば後者寄りである前提でどうぞ。(私が「萌えゲー」という言葉を使う時、大抵、褒めていない。一方、「ラブストーリー」という言い方をする時は、大抵、絶賛している。)
私の評価軸はもちろんこの一つではありません。むしろ、こう書いてみて、ヒロインと関係ないもう一つの大きな評価軸が見えてきました。

*1:グラフィック的にヒロインの出てくるゲームくらいの意。

*2:もちろんメーカーの自己申告は信じず、私の頭の中での判断。

*3:半分はネタだが(笑)。