私の抱えるトラウマの話

この間、私は「姉萌え」が出来ないと書いたが、もう一つ、私にとって鬼門のエロゲジャンルがある。それは他でもない、「家族愛」である。
『家族計画』を私がプレイしないのは、田中ロミオ云々のずっと以前に、あの作品で私は泣けない、泣けるはずがないと断言できるからである。
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私は『CARNIVAL』(S.M.L)の評価が高い。
そして、レビューを見ると、相当に「感情的に」この作品を読んでいる。私はけっこう、この『CARNIVAL』という作品に、本気で感情移入して読んでいたりする。
今でこそ、初読から時間が経ち、瀬戸口氏の次作『SWAN SONG』と比較することもでき、いくらか客観的に『CARNIVAL』を読めるようになったのだが、私は未だに最初の感情的なレビューをリライトしていない。まだしていない名作評価作はこれくらいだろう(リライトをかけたレビューはフォントを一回り小さくしている)。
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『CARNIVAL』は不信の物語だ。登場人物から一次元離れたところで、作者自身が家族を信じない。マナブの母親はマナブを殴り、そして愛す。リサの父親はリサを犯し、そして愛す。絵に描いたような悪人を描かないし、ましてや絵に描いたような善人を描かない。登場人物のそれぞれが抱く、内心の葛藤と外面(そとづら)の仮面。そんな「人」と他の「人」との間に存在する絶対的な壁と、それによる相互不理解。
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こんな、『CARNIVAL』という作品を私が即受け入れられた理由は、私の家族がまさに仮面家族だからだろう。もちろん、私は母親に殴られたわけでもないし父親に犯されたわけでもないが、私の両親は人並みな善人としての貌(かお)とそうでない貌を併せ持っていた。
他の家庭がどうなのか内情は知らない。だが私は子供の頃から、「外」に向ける愛想の良い貌と、「内」=「家庭内」に向ける愛憎剥き出しの貌の差を、知っていた。うちの家庭は、傍から見れば普通のありふれた家庭だったのだろう。だが、私は、彼らの表情の影に潜む醜さを経験しており、人の持つ内面と外面の差を無意識的に知っていた。
それを反面教師にしていたら、私の抱く感覚も違ったのだろう。しかし私は、こうやって隠れエロゲーマーをやっていることからもわかるように、両親と同じように、自然と仮面を被って生きていたりする。両親の通ってきた道を、自分も歩もうとしていると苦笑する。そして、もし自分が子供を育てる時が来れば、結局のところ自分もまた同じようにするであろうことが、なんとなく予想できる。
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私は、「家族の親愛の情」に、心のどこかで、嫌悪感を抱いたまま、今日に至っている。その背景の醜さを忘れることができない。美しさを、感じない。
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もし両親がもっと大馬鹿野郎で暴力の一つや二つも振るうような非人間だったら、私はもっと「幸せな家庭」の存在を「夢見れた」のかもしれない。だが今の感覚としては、それには、ただ、リアリティを感じないだけなのだ。恋に落ち、結婚し、子供が生まれて巣立ち、年老い、倒れ、死ぬまでの過程において、この私が「幸せな家庭」を築く、築き続けるイメージが沸かない。
私が両親と違う点は、時に家庭内で簡単に仮面を剥ぐ彼らを前に、私はその仮面をほとんど剥がさなかったことだ。もちろん、ある程度、仮面の下の表情は読まれていたんだろう。だが、もうこの歳になれば、それをされるようなことはない。
じゃあ私は、いつ、その仮面を剥がすのか。親しい友人やこのネット上では、かなりのレベルまで仮面を剥がしているとはいえ、家族を作った時に私は常に「素顔」で彼女に接することができるのか。そこに…リアリティが無いのだ。
私にとって、家族モノというのは、ある意味純愛モノ以上に、程遠い存在なのだ。もちろん、まったく「仮面」を被らずに生きている人なんていないだろう。だが、それを「意識しない生き方」を出来る人は幸せだと思う。心の底から。
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私はもはや家族の金銭的援助を必要としなくなった。となると、これは強がりでも何でもなく、たった今家族が全員死に絶えても、私は悲しいと思わないだろう。むしろ、葬式と相続手続への心配とかが気になり、老後の介護問題とかの憂いが無くなることに対して喜びそうで恐い。
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どこで、私は、こんなに、ぶっ壊れたんだろうか。
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家族とは絶対的な存在だ。唯一無二のモノに評価の意味はない。だから、良いも悪いも好きも嫌いもない。「こうなった」という事実があるだけで、それに是も非もない。
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さて、明日は姉の結婚式だ。両親と姉弟という我らが核家族は、明日、その一部を失う。仮面家族は、その崩壊を、どのように受け止めるのだろうか。泣くんだろうか。親父は、俺は。