自殺論①

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自殺ってのは、片時も肯定してはいけないと思う。なぜなら、ふとそれを考えた時に、そっち側へ引っ張られることがあるからだ。そして、それが発現したが最後、もうこっち側へは戻って来れないからだ。自殺なんて、常に嘲笑と皮肉をもって見ておくべきだと思う。それでちょうどいい。
もちろん未遂に終われば別だが、ちょっと考えれば絶対に未遂に終わらない方法などいくらでも考え付くし、そう考えれば、自殺未遂というモノそのものが逆に助かりたいとの願望の現われのように思える。そんなんだったら生きればいいのに、馬鹿馬鹿しい。血痕を片付ける人の身になってみろってんだ。
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日本では、それの発現が年間三万五千件も起きている。アホらしいと思う。
三万五千という数字は、エロゲにしてみればヒット作だ。それくらい「ありふれている」。手段も、昔はせいぜい首吊りやリストカットという苦しみを伴う手段を乗り越えるしかなかったのに、現在では高層ビルもできたし睡眠薬も手に入る。
今や、自殺に神秘性も崇高さも無い。なぜなら、それだけありふれて簡単にになって、その分、価値が暴落したからだ。大して珍しいモノではない。新聞にも載りやしない。
私だって、「明日死なないともう二度と死ねない」のなら、死を選ぶと思う。でも実際には、そんなモノはいつでも出来るのだ。死は特別でも何でもない。何の高揚感も興奮もない。あるというのなら、それは錯覚だ。
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そう思ってないと、やってられないでしょ?