衛宮士郎論

例の『こなたよりかなたまで』の件で思ったんですが、この作品の主人公・遥彼方は衛宮士郎(『Fate』)に似てるのかもしれません。特に第二部の。
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「理想を抱いて溺死しろ」
第二部『Unlimited Blade Works』の根幹となるアーチャーの言葉です。
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ですが、私が思うに、この言葉を吐く資格があるのはそれこそアーチャー自身だけなのではないでしょうか?…当たり前と言えば当たり前ですが。
第二部の衛宮士郎滅私の人です。この第二部はそれを「欠落」と表現しますが、衛宮士郎は最後までそれを否定しません。それは単純に、「滅ぼす」のは「私」だから。他者に対してそれを認めないことは作中で示されてます。
衛宮士郎はこのアーチャーの言葉を受け入れず、あらん限りの抵抗を見せるのですが、それはその言葉を認めないから…というよりも、「死」んでは「理想」を体現できないからではないかと。
この生き方の果てに、結果的に大いなる絶望を抱いたアーチャーは衛宮士郎と対峙するワケですが、彼が他でもない「衛宮士郎」としか対峙出来ない点で、アーチャーと衛宮士郎は異なりません。「滅私」に対する絶望の果てに選んだ道は「滅私」なわけです…。
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第三部『Heavens Feel』がそれまでと対象的に描かれていることは誰しもが気付くはず。このシナリオは、衛宮士郎が無作為の「滅私」を放棄し、「世界が滅びようと最も近い者を守る」シナリオになっています。
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思えば、この私がこの第三部に「ハッピーエンドを求めていなかった」ことは必然なんですね。
『こなかな』への評価でわかるように、私は「滅私」の価値をかなり高く置いています。それを「放棄」し、「私」へ走るこのシナリオに、私は「同情すれど認めたくはない」って感じなのです。ちょうど、彼方の生き方をそのまま認めない人の評価と対極になるのでしょうか?
だからこそ、私は無意識のうちに、この第三部に対し、「バッドエンド」という言い方をしたのでしょう。「テーマ性」のようなものよりも、「物語」=「フィクション」的な見方をしています。
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もちろん、どっちの生き方が正しいなんて、「意見」は別にしても「答え」なんぞはありません。どっちかに偏ることも危険です。
以上は完全な私見ですが、なんとなく、私のエロゲ作品評価のポイントと、そして同時に価値観のポイントも垣間見えたような気がしました。