エロゲレビューサイトから中国のデモ問題を考える

4/10の日記の続きを書いてみる。
私がアレを見て真っ先に思ったのは、「こんなことは日本では絶対に起こり得ない」ということだった。それは褒める意味だとは限らない。「起こらないのが正しい」と言うつもりもない。
だが…いくらネットでの扇動があったとはいえ、アレだけの数の若者が集まるコト自体が、最早現代日本では起こり得ない…だろ?
 :
この国では、既にその段階を30年前に乗り越えた。そして、あのあまりに壊滅的な「社会との戦い」の結果へ挫折を感じたこの国の若者は、バブル経済に乗じた80年代、徹底した「娯楽全体主義」への反動を迎えたような気がする。だが、90年代にはそれすらも崩壊する。「オタク時代」の到来は、全ての若者が自分だけが入れる深い深い穴を掘る時代を意味する。
 :
言わばエロゲレビューサイトなんてその最たるモノだ。ましてや、このhttp://www.geocities.jp/judge13th/o18/eroge.htmlのような、自分の趣味色の強いサイトは尚更である(自分で言うのもなんだが…)。
昨日の『呪詛』の話ではないけれど、おそらくは日本で数千本しか売れてないエロゲについて時間を割いて延々書くようなサイトは、ちょっと前なら存在しない。それはネットという媒体が無いこともさておき、「そんなコトを言うことに意義を感じない」という価値観に溢れていたからではなかろうか。
ほんの一昔前は、「数」は「力」であり「正義」だった。だが、特に最近感じるのが、「独自性」というモノの価値が格段に上がっているということだ。私は心の奥底にも「人と違うことを言ってやろう」という思いがあるかもしれない。それが単なる「イチャモン」だとか「見当違い」に陥る可能性もあるのだが、そういう考え方は常に「他視点」を意識させることになるので、一つのモノの評価を得る上では非常に効果的である。
今の若者は、少なくとも一つは、自分のオリジナルの趣味だとか価値観を持っていると思う。少なくとも、「それを持とう」という意識はあるような気がする。一昔前、「大多数との一体感」は若者に落ち着きと安らぎをもたらしたはずなのだが、今は不安と焦燥としか与えていないのではなかろうか。
 :
それに対し、ネットが大きな意味を持つコトは言うまでもない。
それこそ、周囲にエロゲの理解はおろかヲタすら皆無の状況下で生活する私がエロゲを語れるのはネットあってこその話だし、その中でもさらに選別に選別を重ねた果てにこのサイトがある。
日本には2chがある。私はマジな話、この2chの価値を非常に高く評価しているということを特筆しておきたい。私はエロゲ板のお気にスレによく(というか毎日)行くが、そこに来る日本全体で…おそらくは多くて数百人程度しか、そこには足を踏み入れない。だが、その数百人は、それこそ10年ちょっと前には絶対に出会うことができなかったはずなのだ。
そこでなされる会話(というかは微妙だがw)は、とても濃厚であるはずである。普通の形では良くも悪くも絶対に出来ないであろうレベルの話が出来るに決まっているのだ。
 :
話を中国の若者事情に戻す。もちろん私は実際の中国の動向を知らないので、全て想像の話である。
 :
中国は、日本の若者が数十年前に体験した、「社会との戦いと敗北の味」を知らない。天安門事件はその一つなんだろうが、あれはあまりに政治的に高度すぎるし、今回のデモとは地域的に関係が無いばかりか、敵が政府ではない今回のデモとは方向性が異なる。
そして、彼らは、その後の経済発展に乗じた「娯楽全体主義」もまだ経験していない。おそらくは、彼らはこれからそれを迎える段階のはずなのだ。
そんな彼らに、ネットというアンダーグラウンドなツールが与えられたら?
これが今回の問題である。
彼らは、おそらく、「価値観の細分化」に価値を見い出していない。「大多数が同じことを主張すること」はまさに「正しい」のだと、単純に考えているはずなのだ。
 :
今の日本でこの考え方はあり得ない。
今の日本では多数派は叩かれるのである。それは葉鍵や型月を見れば一目瞭然だ。それはもちろん、「価値の細分化」という「何事も褒められる」ことの対価としての、「何事も批判できる」点の最大の副作用だ。
特に最近のエロゲに「どんなエロゲーマーでも楽しめる決定的名作」が出ないことは、ここに原因がある。これは、コンシューマや音楽業界でも全く同じことが言えているはずだ。
だがそれは、「進化」の果ての結果と見たい。
今この国では、少々の社会問題ではあんなデモは絶対に起こらない。起こったとしても同等・もしくはそれ以上の冷ややかな嘲笑の視線を浴びるはずだ。しかし、それがどうしてかというと、私達に「誰にも自分が正しいと信じる信条があり、それが他人と異なろうとも、自分が信じる限りはそれこそが正しい」という認識と…それに見合った自覚と考察がある…んだと期待したい。だからこそ、根本的に「他者の信条に力押しで反発すること」に常に疑問を抱いているのだ。すっごく簡単に言うと、「人は人、俺は俺」。押しても根本が覆るほどではない、世間的大勢相手ならともかく…である。
だがそれは、単なる「個人主義」ではないと思う。この言葉は「自分さえ良ければよい=利益主体としての個人主義」という意味で従来使われてきたが、「自分さえ正しければよい=価値判断主体としての個人主義」は深く、茨の道ですらある
 :
中国の若者が、ネット上での扇動に何の疑問も抱かず、「我も」と自発的にデモに参加したのだとしたら、それは彼らの自我が確立していない証拠だと思う。自我というモノは、自分の中で問い詰めれば問い詰めるほど、他人との同一性に悩むはずだから。
今回の件を中国メディアは国内で放送しなかったという。だが、ネットでその情報は流れたはずなのだ。もしネットで、デモ参加者が「デモ厨」とでも称されて嘲笑されているのなら私は中国もまだまだ「健全」だと思うのだが、そうでないのなら、彼らは日本よりもずっと遅れていると思わざるを得ない。