マジメキマジメに

ちょっと真面目に。
私はなんでこんなにエロゲーやってるんだろう?昨年なんて、年間50作以上もプレイしている。費用だって、一年で数十万円かけていることになる。時間だって、どんなに速読しても、一作平均で数時間は要しているはず。そして私の場合、レビューを書くのに、それと同等かそれ以上の時間をかけている。
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エロゲの面白さの一つの要素に「現実との関連性」がある。
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当たり前だがエロゲというのはフィクションで、現実には在り得ないモノだ。だけど、それが何で私達の心を揺さぶるかと言えば、そのフィクションが、現実の私達の生き方をも揺さぶるからではなかろうか?
これは、小説でも映画でも全てのジャンルに言えることだが、フィクションという存在そのものが、一度キリの人生を送る私達にとっての「仮想体験」となることは間違いない。私達の世界には天使も魔女もロボットも魔法も異常気象も水没都市も奇跡も存在しないが(この表現『らくえん』より)、フィクションを体験することで、「それらがあった場合」の考察ができる。そうすることによって、本来、実際にそういう状況に陥ってみなければ得られないはずの何らかの「テーマ」について学ぶことが出来る。これが、フィクションの最大の魅力だ。
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抽象的なので、例を挙げてみる。
「もし自分がもうすぐ死ぬことを知ったら」。もし、私が『こなたよりかなたまで』をプレイしていなかったら、どう行動したらよいかわからないままだっただろう。だけど、今は昔とはちょっと違う。相手の為に生きるとはどういうことか、自分の為に生きるということはどういうことなのか、この作品はそれを私に考えさせる機会をくれたから。
作中のフィクションに「現実」との共通項を見い出してしまうこともある。『CARNIVAL』なんかはまさにそれだった。作中の登場人物の姿を客観的に見せられたことは、彼らと共通する部分を持つ自分にとって大きな衝撃だった。
「仮想体験」という意味では、『らくえん』これも大きい。私は、最近仕事を沢山抱えていて以前よりもずっと忙しくなったのだが、自分的には手一杯なつもりでも"ムーナス"の面々の働きぶりを見せられた今となっては、「まだまだ俺は働ける」と思う。(この辺は厳密に言えばフィクションじゃないからこその意味か)
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両方とも、フィクションが私の現実を侵食した顕著な例である。こういう作品の評価が高くなることは理解していただけるだろう。
私としては…「テーマ性」を感じないエロゲーはあまり印象に残らない。「プレイして楽しんで、それでおしまい」というのはある意味ゲームの本来の姿なのだが、そうであるなら、そのプレイは単なる暇潰しの意味しか持っていないことになってしまう。
それでは、あんまりではないか?
私は長々とレビューを書いて、それを自分で読み返して自分で手直ししているヒトである。その過程で「感じたことを文章という形にすること」は、大マジな話、生きてゆく上で非常に役に立つのだ。だからこそ、最近では、エロゲは普通に遊ぶことと比べてもずっと面白い。普通に遊んでも、「人生に役に立つ教訓」は、なかなか得られるモノではないのだから。
もちろん、全部が全部のエロゲにそれが含まれているワケではないし、そもそも小説なんかの方が適任なのかもしれない。でも、小説はあまりに読む前に「名作か駄作か」の判別が利かない。時間の無い社会人には厳しいのである…。
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最後に、間違いの無いように言っておきますが、「エロ」に関しては現実とリンクしないように区別して楽しんでますので…。