このサイトを見てもそう思うのだろうか?

例の、奈良の幼女誘拐殺人事件の犯人、私は事件が発覚した頃から「たぶんエロゲーマーだろうなあ」と思っていたのだが、自宅にPCそのものが無かったらしく、最も恐れていた事態は回避されたようだ。
とはいえ、最も端的にかつ合法的にロリを味わうなら、エロゲーというのは最も優れたジャンルの一つである。実写児童ポルノは既に違法なのだが、二次元的創作物にそれを問えるかというと、疑問も感じるからである。(詳細:http://www.geocities.jp/judge13th/o18/c-1.html)
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例えば、殺人事件を扱った映画を見て、実際に人を殺す奴はまず存在しない。それと同様に、陵辱エロゲをやったからといって、実際に陵辱に走る奴もまたいないはずである。とはいえ、今回の事件を「結局はプレイする側の問題」「表現の自由」という言葉でエロゲを肯定する側に持っていくのもまたどうかと思う、今日この頃なのである。
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まず、「殺人」と「エロ陵辱」には根本的に異なる点がある。「人を殺してはいけない」ということは声を大にして言えるのであるが、「幼女を誘拐してレイプして殺してはいけません」とは、大声で言うべき言葉ではないのだ。それは後者が、あまりにアブノーマルであることに起因する。「アブノーマルについて存在そのものが広まることで、かえってアブノーマルに足を踏み入れる奴を生みかねない」のである。
私の高校時代、教育委員会からのお達しだったのか、教師がHRで「最近ブルセラショップができたようだが行ってはいけません」と言ったことがある。その頃無邪気なリアル工房だった私とその周りの人間は、当然ながらその店舗ができたことを知るはずも無く、そもそも関心も無かった。つまり…まったくの「藪蛇」だったのである。
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今回の報道を見ていると、この点の危うさを感じるのである。
私は「隠れ」エロゲーマーの一員であり、常に肩身の狭い思いをしている。でも、そもそもなんで「隠れ」なのかと言えば、それが「反社会的」であることを理解しているからだ。隠れに限らずエロゲーマーってのは、「ロリ」とか「陵辱」は薄暗いエロゲショップで隔離して並べておけばよいもので、堂々と陽の光の下に晒すべきではないことは、ある程度理解している(はず)。
「こういう世界があること」を、普通にワイドショーやニュースで公開する「雰囲気」そのもにに危険を感じるのだ。こんな世界は、「最初から最後まで隠しておけばよい」と思うのである。
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私は、コンシューマに移植されたエロゲにも同じ匂いを感じる。全年齢対象であるということは、「世の中に反しない」とみなされるはずである。特に若い世代に、元・エロゲの世界観を、「世の中の普遍」と捉えて欲しくないと思う。
ま、もっとも、陵辱系のエロゲは別にしても、近年の主流を占める「恋愛エロゲ」の影響か、「反社会的」な存在であるはずのエロゲーマーそのものが「仮想と普遍の区別」をできなくなっているように感じる。
いたいけな彼女』(ZERO)という作品の感想を見ると、「陵辱ルートは行けない」というプレイヤが予想以上に多いことに驚く。私は…こんなエロゲーマーを信用してない。彼らは、ヒロイン・ほのかにある程度リアルに感情移入しているからこそ、陵辱ルートを拒否しているからだ。では、もし彼らが先に陵辱ルートをプレイして、それにハマっていたら?彼らが陵辱をリアルに肯定する可能性は無いと言い切れるのか?私はこの作品をプレイしていて、とっさに「危険」であることを感じずにはいられなかった。リアルと仮想の線引きをわざと曖昧にしようとしているのを感じたからである。そして、そこに見事にハマっているプレイヤーの多さに驚いた。「陵辱ルートは空想であり、同様に純愛ルートも空想である」、意外とエロゲヲタにこの自覚は無い。
リアルと仮想の区別は明確にしなければならない。とはいえ、作中でそこを明示してしまっては…「つまらない」のである。「本作の登場人物は全て18歳以上です」「本作は実在の人物・団体とは一切関係ありません」という表現が作中に登場する場合、大抵はギャグとして使われる(笑)。大真面目にそんなことを言うなんて、「無粋」だからだ。だからこそ、そんな前提は明示しなくてよい。だからこそ、同時に…エロゲーマーに求められるのは、確実な「理性」と「自覚」だと思うのである。
私は、自分でもアキれるくらい糞真面目にレビューを書いている。たまに言われるが、それに「引く」感覚はわからなくもない。でも、「所詮はエロゲ」という言い訳の下に何でも適当に済ませるのは好きではない。このエロゲというモノは不謹慎な代物なのだから、取扱には充分に注意すべきだ。それに気付かない奴はもう人間として終わっている。
そして、それくらい危険な作品がもっともっと出て欲しいと思う。なぜなら、それくらいの「危険度」を持つ作品でなければ、「つまらない」から。私はリョージョクが好きである(爆)。エスエムが好きである(爆)。大抵は、過激になればなるほど好きである(爆)。そんな私にとってみれば、「危険」な作品の方がよっぽど面白いのだ。そんな私は性犯罪予備軍か?私自身についてはそうではないと断言できるが、同様の嗜好を持つ他の奴についてはそうはいかないことが、最大の問題なのだ。このエロゲという娯楽は、「人を選ぶ」のだ。そうあるべきなのだ。ちょっと間違えれば犯罪に走りかねない馬鹿野郎なぞ、とっとと排斥すべきなのだ。だからこそ、一般人はこちらの世界に簡単に入れるべきではない。
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一般人の理性など、大したモノではないだのだから。
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会社の同僚が、当たり前にWinnyで映画等を落として、それに罪悪感を抱かないばかりか「悪い行為であるということに気付いていない」ことに愕然としたことがある。
彼は決して悪人ではないのだが、その分「これはまっとうなこと、そしてこれは悪いこと」という線引きをしていない。生きていて「悪い行為」を自分がする機会がまず無い(と思っている)のだから。私は、エロゲに限らず意図的に「悪さ」をする人間なので、自分の行為の中で「これは悪いこと=明るみにしてはいけないこと」を判断している。その分、「いくらなんでもこれは認められない」と感じる所は強い意思で破棄している…つもりだ。
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今回の「性犯罪者の履歴を公開しろ」なんていうのは、「自分達が性犯罪者でない」ことを明らかに自覚した一般人の意見である。つまり、彼らにとってそれはプラスにはなれどマイナスには決してならない。マイナスを喰らうのは、更生を目指す前科者だけだ。
そこには、「自分達は正しい」「自分達は正常」という意識がある。それはもちろん大多数は正しいのだろうが、「本当に芯の芯までそうなのか?」というと疑問に思う今日この頃なのである。
もはや、イノセンスに生きていれば「正常」な時代ではない。(…昔はどうだったのか知らないけれど。)おそらく、一個一個を疑って、「何が正しいのか」を潰していかないと「正常」たり得ない、そういう時代なのではなかろうか?