『この青空に約束を−』(戯画)中間感想④ 〜フィクションとリアリティの話〜

静・沙衣里シナリオ終了。
昨日のXさんのコメントにお答えするなら、私が『Forest』という作品に対して見ているモノは、今作が描こうとしている(んじゃないかと思う)モノに非常に近い…そのまんまなくらいですよ。
以下、その分、ちょっと今作に批判的な記載です。
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あまりそういう見方をしている方はいらっしゃいませんが、『Forest』ってのは「現実」を描いた作品だと思うんです。それは、作中人物にとっての「現実」という意味だけではなく、プレイヤーたる「私達」にも通じる「現実」を。
[森]は史上最高級のスケールを持つ「空想世界」なのですが、あろうことかこの作品は作中で「空想であること」を「俯瞰」し、乗り越えてゆく。この作品が同時に「現代新宿」を舞台とするのは偶然でも何でもないと思うのです。
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それを思い出して、今作の描く「巣立ち」と「成長」には見劣りを感じるのですよ…。
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私が冒頭から感じていた疑問の一つが、「つぐみ寮はなぜ取り壊してはいけないのか」という点です。

海己
「論理的でも、冷静でも、理性的でもありません。
ただ、『自分たちの思い出がなくなるのが悲しい』
それだけの、本当に、本当に、身勝手な、理由です」
沙衣里
「だから、敵が善か悪かなんて、興味ない。
こっちが悪の秘密結社でも、勝たなきゃなんないし」

作中で言っている通り、その理由はエゴイズムでしかありません。エゴイズムを主張することは間違っていることではありませんが、その場合は、「相手のエゴイズム」の存在と、その相手にとっての価値を考慮する必要があるのではないですか?
この学園は私立校のようですし、学園の所有物を処分する権利は認められています。それがどんな金銭的欲望に彩られたモノであっても、その権利が揺るぐモノではありません。民間人がどれだけ業者と癒着し利権を貪ろうとも、商法・会社法を除けば収賄罪等は成立しません。
リゾート計画にしたって、現にサザンフィッシュやハーバーが出来た時に、「島を観光地にするのか」と憤りを感じた人が…いないワケはないのです。それを、地道な説得により同意を得たという描写がありましたが、今回の計画にしたって、それが出来ない道理は無いじゃないですか。今回の計画に関するその辺の描写は存在すらしません。彼らはそれをしろと言うのならともかく、今作では頭ごなしになんとか相手に断念させようとしているワケで。
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今作は、「意見の相対化」を行なわないんですね。
「自分の意見が正しいのか」「相手の意見は間違っているのか」の視点があまりありません。沙衣里シナリオの職員会議における会長の校内新聞配布がいい例です。あれ、脅迫ですよね(笑)。しかも、真実を隠し通しましたしね。冷静に見ると、どっちが正しいのかよくわかりません。
けっこうこの作品、主人公の味方でない存在への描写がぞんざいなのですよ。学園長と教頭に限らずね。
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先にも書きましたが、今作は、主人公視点と客観(事実)視点を同一化しています。なので、今作の出来事には、全て主人公のフィルターがかかっている。それを、あたかも客観的事実…のように、そう見えかねないように描いているから、私のように一歩引いて眺めるタイプのプレイヤーには、不満に思えるのですよ。
例えば、つぐみ寮では飲酒が一般化してますよね?作中でそこに一つも触れないんですが、いちおう、世間では、未成年者の飲酒については否定的なコンセンサスがあるはずです。身体への悪影響が在ることは事実です。登場人物が20歳以上だなんてのはナシですよ。
また、男女を一つ屋根の下に住まわせた弊害は、ものの見事に発動するじゃないですか。何せ、どんな選択肢を選んでもそーいう展開になるのです(笑)。
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こーいう私の否定的論調に対しては、こういう反論があるでしょう。
「だってフィクションじゃん」と。
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そーなんです。この作品はフィクションでしかないんです。
確実に分類される善人と悪人。ヒロイン達との、感情の襞も含めた完璧なコミュニケーション。
作中の登場人物達に無条件に与えられるハッピーエンド。
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でも、現実って、そうですか?
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現実は、そんなに甘いモノでもないし、そんなに善悪のはっきりするモノでもないんです。
『Forest』で雨森望を打ちのめすのは、他でもない[新宿]。しかし、それでも雨森は、「OL」であることにひたすら固執する。それこそが、自分に残された存在価値であるかと主張するかのように。
ロビンくんには無邪気な残酷さが在り、クマ氏には純粋な狂気が在る。時計塔から飛び降りたアマモリへの報道には悪意が溢れ、それは「説得」できる生易しいモノではない。不治の病に冒された宮野伽子は、やはり、死ぬのです。
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魔女アマモリは、[森]という空想世界で、誰よりも「幸せな結末」を望む。しかし名無しの賢者…城之崎灰流は、最後までそれを否定するんですよ。
『Forest』の終章「エピローグ」にて、各ヒロイン達は、それまでの彼女達の関係をただそのままに続けようとはしません。それを微塵も否定していないにも関わらず。そこには依存と盲目が無い。[森]から確実に何かを得て、それぞれの道へ歩き出す。一人…「先生」を置き去りにして。
それは、「幸せな結末」ではなかったのかもしれません。でも、「現実」には、そんなハッピーエンドは必ずしも…用意されているわけではありません。だって、彼ら、彼女らの生きる場所は[森]ではないんです。[新宿]なんです。
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『Forest』は、最後にヒロインとの関係性を犠牲にしてまで、「空想」との距離感を描きます。『Forest』という作品も、一つのフィクションです。しかし、[新宿]という、私達にそのまま通じる「現実」を舞台とした作品は、そのまま私達に反映します。[森]と雨森達の関係は、そのまま、『Forest』という作品とプレイヤーの関係になるのではないかと…思うんです。
「ねえ?お話を聞かせて?」で始まる物語は、「それはまた、別のお話」で締め括られる。
灰流や雨森は、一つの「お話」を終え、別な「お話」へと続いていく。人が人である以上、それは避けられないことで、かつての「お話」が新しい「お話」より優れているとは限らないのも、必然。
初恋が実らないのはなぜ?それは、もっと素晴らしい「お話」を見付けたからではないですか?
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史上最強級に素晴らしき「空想世界」を描いた『Forest』は、その空想を「空想として」受け止め、その限界を突く。その空想世界を、「語る」のでも「聞く」のでも「読む」のでも「伝え残す」のでも「インスパイアされる」のでも「踊る」のでもない、絶対的主観的な存在として雨森を描く。そんな彼女のエピローグにおける在り方は、同じく[現実]に生きる私達にとっての、「空想」との付き合い方でもあるはずだ。
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すいません、殿堂入り作品は語ると長すぎます(汗)。内容はいつもの『Forest』短評ですし。その割に内容はあまりまとまってませんし。
話を『この青空に約束を−』に戻します。
私はこの作品に、リアリティを感じられないのですよ。
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魔法とかのいかにもな空想部分は無いんですが、言ってみれば「世界」そのものが空想を越えられていない印象です。


「夢に辿り着かない現実なんて認めない。
現実の逃げ場でしかない夢なんかいらない」

先に書いた海己シナリオの科白ですが、これを消化できてないんですね。「所詮、フィクション内の出来事」と言ってしまっては言い過ぎでしょうか?フィクションとして「成長」や「巣立ち」を書かれても、それが「私」に跳ね返ってこないという印象が強いんです。
むしろ、今作に欠けている(と思った)「意見の相対化」というのは、まともに私達が「現実」に生きていく上で欠かせない視点だと思うのです。だから、こっちの足りない部分の方がリアリティを感じてしまったり…。
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私にとっては、この作品、変にシナリオを凝っていない部分の方が楽しめるようです。早い話が、フィクションはフィクションとして素直にラブコメやってる時が一番(笑)。