他山の石

例の件はあんまり大袈裟にしたくはないというのは本音であるんだけど。(そもそも私に正面から対抗する絶対的正当性があるなら、あの場でそうしているワケで)
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こんなコメントがありました。

30点 Forest (Liar Soft)
ひどいマスターベーションを見せ付けられた気分。ファンの人ごめんなさい。
                〜ErogameScape・wizardsbrainさんのコメント〜

私はご存知の通り(?)『Forest』に100点を付けてます。なので、私の主観とは決定的に異なる評価なわけです。ですが、wizardsbrainさんのコメントを見て腹が立つかというと、絶対にそんなことはありません。後の一言で、この人の人間性が見えるじゃないですか。
要は書き方なんですね(そんなことを言ったら元も子もないですが)。そして、私も同じようなことやっているケースは、自分で気付かないうちにたくさんあるのかもしれません。いや、たぶんたくさんあるんでしょう…。
でもこれだけは一つ。私は何かを否定する文章をたまに書きますが、それを褒められても・賛同されても、あまり嬉しくないです。この姿勢だけは忘れないようにしたいです。
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以下はメモ。どーでもいいことです。(各種ネタバレ有り)
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1.『こなたよりかなたまで』について
この作品は最初からクリスのトゥルーエンドへ行けないようになってます。これを最後に行くのが、おそらく正当なルートでしょう。
私は意図的に佐倉シナリオ的な彼方の生き方を擁護してるんですけど、それは、この作品が、最後にパラダイムシフトを起こす構成だからって面があります。「否定」とまではいきませんが、この作品中では冒頭の彼方の生き方って決して「肯定されていない」んですよ。
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クリストゥルーエンドを素直にこの物語のトゥルーエンドとして見れば、序盤の彼方の生き方を否定する人は、最後に喝采を上げるはずだったりします。彼は最後に、「ただ、愛する者と共に歩む」という、「最も単純な答え」を選ぶのです。
9791さんの見方は、この作品の最もまっとうな読み方です。
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私が思う佐倉シナリオの「味」は、舞踏会で別れを告げてからにあります。
彼方は、一人ベンチに腰掛けながら、喪失感に囚われます。自分がこれまで佐倉に対して行ってきたことの意味を考えて。私は(ここまで健速氏が考えていたのかわかりませんが)、彼方のあの「意地」は「恐怖の裏返し」でもあったと思うんですね。たぶん彼は、何かに熱中していないと潰れていたと思います。たぶん彼は、自己の何かを殺すことで、代償的に何かが救われることを「期待」していたんでしょうね。
しかしそこに、佐倉が追いかけてきます。全てを知った佐倉が。普通ならここで、彼方は佐倉の胸に飛び込んで泣く…とは思いませんか?もう佐倉は全てを知ったのだから、もうそうしてもいいんじゃないかって。だけど、彼方は、ここに来てもなお泣きませんし、佐倉に全く甘えようとしないんです。
私はここで「強い」と思いました。もうこの時点で彼方の胸に在るのは「恐怖」ではないはず。それでもなお、本心を見せない「強さ」は、まさに「他人を想う心」だと、私は思います。
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で、『こなかな』という作品の更に凄いところは、ここまで描いた「他人を想うこと」という概念をクリストゥルーエンドで乗り越えてみせるんですね。「愛する者と共に歩む」という至極単純な答えの裏に在るものは、その対極への強烈な考察です。最初から「愛する者と共に歩む」という答えを選ぶ人は、答えは合っているかもしれません。ですが、そこまでの「証明」に関して、これほど突き詰めた作品を、私は他に知りません。
実は、私の『こなかな』に対する印象は、徐々に徐々に変遷しています。私は今や、この作品が「死」を描く作品だとあまり思ってません。むしろこの作品は、私の選ぶ最高の「愛」の物語。この作品が「結婚式」で締め括られるのは、本当に素晴らしいエンディングだと思います。
前にも書きましたが、私は未開封の本作品を一つ所持しています。それはプロポーズの時に渡す為です。けっこう本気です。
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で、そんな私がなぜ佐倉シナリオ(における彼方の生き方)を擁護するのか。それは、この作品のトゥルーエンドで描かれる「答え」を安易に考えないように…って感覚です。このトゥルーエンドは、序盤の彼方の生き方を「隅から隅まで否定」して、初めて肯定される茨の道だと思うのです。私は、この作品を完膚なきまでに全身全霊を込めて壁に叩きつける人を否定はできません。その人は、クリストゥルーエンドを体現できる人のはずだからです。(そう考えると、トゥルーエンドを読んでない人に言っても全然意味がない)
この作品における最も根本的な主張は、一番最初に在ります。最初から物語をスタートした時の、一番最初の場面ですね。その答えを「証明」なく出すのは避けたいと、私は考えてました。
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以上、長くなりましたが…最後に。本当にこの作品、エロシーンが要らないエロゲーじゃなかったら文句なしに100点付けてます
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2.『君が望む永遠』について
こんなコトを言ったら怒られますが、私が今になってこの作品をプレイしていたら、地雷判定しないと思います。なぜなら、私は恋愛モノとしてこの作品をプレイし、結果地雷判定だったのですが、『螺旋回廊』『螺旋回廊2』を経験した今、私はこの作品を恋愛モノだと微塵も思わないからです。
君望』は、向きこそ違えど、『螺旋回廊(2含む)』によく似ていると思います。『螺旋回廊(2含む)』を恋愛モノとして見たら、そりゃ、地雷にしか思えません(笑)。
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私は『マブラヴ』含めて他のage作品をプレイしていないのであまり深く語る資格を持たないんです(なので反論は是非)が、『君望』『螺旋回廊(2含む)』って、製作者が登場人物と場面を突き放して見てます。私は製作者の登場人物への本気の感情移入を感じません。だからこそ恋愛モノとして考えるとマズい(私の場合、製作者の愛を感じられない作品中の登場人物をあまり愛せない)のですが、その分、あの強烈な描写に至っているのではないでしょうか?
「ヒロインB妊娠エンド」「ヒロインB奴隷エンド」「ヒロインB犬エンド」「ヒロインAの妹の妊娠エンド」「ヒロインA隠し妻エンド」、これらは『螺旋回廊』の方じゃなくて『君望』DVD版のエンドです。
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この作品は『School Days』に似てます。
鳴海孝之伊藤誠のポジションも同じのような気がしてきました。『School Days』はヒロインを確固たるモノにしたが故に、主人公は風見鶏になりました。一方のこの『君望』は、描くべき「場面」(=修羅場)を確固たるモノにしたが故に、主人公が風見鶏になったような気がします。
School Days』は流血とかを使って極端にしたのとOverflowの過去の前歴から、あっさりと確信犯(誤用)であることがバレましたが、『君望』は今もなお恋愛モノとして評価されてたりします。私はこんな文章を前に書いたことがあって、『マブラヴサプリ』の発売で一度はこの説を撤回したんですが、『螺旋回廊』二作および『School Days』の経験から、もしかしたら本当にそうなんじゃないかと思い直したりしてます。
逆に私は、『君望』のコンシューマ発売が信じられないんです。どうやってエロ無しに二章を描いたんでしょうか?この作品は意図的に醜悪さを描く作品であって、エロシーンの持つウエットさは不可欠だと思うんですが…。
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最後に…それにしたって、遥・水月・茜の三人以外は不要だよなあ…。
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3.『天使のいない12月』について
私のこの作品の評価は「既存エロゲに対するアンチテーゼ」です。ぶっちゃけた話、この作品展開にリアリティが在るとは、それほど思いません。
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この作品の主人公・木田クンは、結局「没個性」なんですね。この作品の冒頭から、彼は世間に対する冷笑と虚無を気取るんですが、結局彼は「そんなに冷たくない」し「そんなに冷めてもいない」。この逆説的な肯定がこの作品の味です。マイナスから始まる、「人とか世の中ってそんなに悪いモノじゃないじゃん」って感じの。そんな「没個性の肯定」がけっこう好きです。
この作品は、主人公に限らず、そんな逆説的な物語だと思います。
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正直なところ、この三作の主人公、そんなに共通点があるとは思わなかったり(汗)。製作者の「何らかの意図」が関与しているという点は感じますが、それはどの作品でもそうかという気がします。まあ、私は主人公が「空」の作品をあまり好まない(恋愛モノは駄目だし)のでなあ…。
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たぶん私と9791さんの考え方の最大の違いは、「自己と他者の壁」の捉え方のような気がします。
私は、人と人との相互理解は基本的に「在り得ない」と思う方です。これまた私がよく出す作品ですが、『CARNIVAL』が真理のような気がしてなりません。「在って欲しい」かどうかはまた別ですけれど。
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以下、ポエムです。(「ポエム」ってのは『未来にキスを』の式子の使う科白ですが、これ、使い出すと非常に便利ですw)
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私が彼女を愛するキモチと、彼女が私を愛するキモチは、同じじゃないんじゃないかと。それが同じだと思うなんて傲慢なんじゃないかと。私は私の限りで彼女を愛するし、だからといって彼女が自分と同じように自分を愛するとは限らないんじゃないかと。それは自分が自分であって、他者が他者である限り、どうしようもないのではないかと。もちろん、そうあって欲しいんだけど、それを他人に求めるのは、また違うと思ってしまう。どれだけ自分が彼女を愛していても、彼女が別れることを選択したのなら、私はあっさりとそれを諦める方です。そう、他者と自分を切り離すというのは、実にドライな考え方です。おそらく、私みたいな考え方をしない人にとっては彼方の考え方はドライに見えるんでしょうし、『君望』のシチュエーションで「二人とも選ばない」を選ぶ私は、やっぱりドライに見えるんでしょう。私は自分と他者が同列のモノだとは思わないから、等価だとも思えない。だから、「自分をひいきしないように」する必要がある。自分と他者を同じ眼でハナから見れないんですね。そこで他者を全然大事にしないならそれはそれで楽なんでしょうけど、とはいえ私は「他者として」他者を愛しているワケで。
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(もしかしたら9791さんの意図とはちょっと違うかもしれません。)
以上、だから私は独身なんだというオチが付いたところで、今日の日記はこれまでにしたいと思います…。