コメントのコメント(8/22)その2

まだら牛さんが『Fate』の桜シナリオについて触れたのは、非常にポイントを得たご指摘だと自分で思います。私は、この『Fate』という作品、エンディング寸前まで、本当に凄い作品だと思っていたのです。ただし、「過去形」です。
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Fate』第一部は退屈でした。十二時間以上かかったのにそれ以上言えません。
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それを「踏み台」にして一気に「凄い」と思わせたのが第二部です。アレは、「他人のために生きること」に対する、一つの究極の描写。奈須きのこ氏は「他人を救ったが故に殺された自分」という姿を描くために聖杯戦争なんて舞台を用意したと言ったら考えすぎでしょうか?
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さて、第三部です。私は、このシナリオのエンディング寸前までずっと「凄い」と思ってたんですよ。
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この第三部はまだら牛さんの仰る通り、私が「凄い」と思った第二部と全く正反対の物語です。私はむしろ、「だからこそ凄い」と思いました。第二部であれほど「不特定多数の他人の為に生きる姿の清らしさ」を描いた人が、第三部で「特定の人の為にその他を全て投げ打って生きる姿」を描くんです。「第二部の意味を誰よりもわかっている」人が描くからこそ、第三部の描写には「覚悟」があると思うんです。
「第三部」は非常に醜悪な一面があります。桜というヒロイン持つ内面の「嫉妬・欲望」を描いた点は、第二部であの衛宮士郎の「滅私」の姿を描いた人だからこそ、凄い。このシナリオは一気に価値観が反転します。タイガー道場30のバッドエンドは、私の見た「最高のバッドエンド」です。「衛宮士郎は桜を殺し、聖杯戦争を勝ち残った」。コレを見た時、「負けた」と思いましたよ。
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ですが私は、「このシナリオのエンディングに納得がいかなかった」んですね。
私はおそらく、最後の戦いで桜が凛に殺されていたら、この作品を今もなお絶賛していたと思うのです。
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ぱすてるげ〜ま〜ずを読んで自覚したんですが、凛ってすごくバランスの取れた登場人物です。アーチャー&士郎と桜のちょうど中間にあるキャラクターです。それ(桜を殺すこと)をできるのは彼女をおいて他には居なかったはず。
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私は、桜と、彼女のシナリオにおける士郎の生き方を否定はできません。私は「滅私」を理想としているかもしれませんが、そこまで徹底はしておらず、むしろ彼らの方に近いかもしれないです。彼らの生き方、「実感としてはすごくわかる」んです。
ですが、「利己」を貫き通した桜と士郎には、「本当の幸せ」があって欲しくないんです。彼らは、二人の幸せの為に、もっと多くのモノを壊しているはずです。そんな彼らには、ハッピーエンドがあって欲しくない、あるべきでは無いと、私は感じていました。これは「物語」なので、「因果応報」的なところを、私は考えていたんですね。
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ところがこの作品、ライターである奈須きのこ氏は桜に「罰」を下さないんです。桜は死にませんし、あろうことか士郎まで生き残ってたりする。そしてこれがこの作品の「グランドフィナーレ」。
9791さんは逆にこのシナリオのトゥルーエンドこそが「桜にとって最も重い罰」という見方をされてますが、私の場合はむしろ、この奈須きのこというライターは最後の最後の肝心なところで「わかってない」んじゃないか(注:私の見方と違うという意味です)という印象の方が強かったのです。
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率直なところ、私はそこまで奈須きのこというライターの意図が見えなかったです。私のレビューはプレイ直後に書いたものですが、「皮肉」があるのかと疑ったりもしてます。
また、全体を総括する「第四部」がもしあって、一〜三部がそれぞれどこかで選択肢を間違えた「並行世界」なら、まだ評価したと思います。だってそれなら、「第三部はバッドエンドを描いたんだ」って割り切れるから。「グランドフィナーレ」ってのはやっぱり間違っていると思います。
こんな私ですから、『Fate/hollow ataraxia』の作りに更にガックリきたんですね。
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長くなりました。まとめます。
私にだって、何か一つのモノの為に生きたいと思う存在が現れるかもしれません。もしかしたら、それを得る為に、守る為に、何かを犠牲にしなければならないかもしれません。私はそれでも、それを得たい、守りたいと思うかもしれません。
その時は、躊躇うことはないでしょうね。親族だろうが社会だろうが国家だろうが人類だろうが、敵に回すでしょう。
だけど、それ故に親族や社会や国家や人類に恨まれ・反撃されるのは、それもまた当然だと思うのです。許して欲しいと考えるのは「甘え」のような気がします。もし、彼らが許してくれず、私が彼らの前に敗れても、その時は、彼らを恨まずに死んでいきたいと、私は考えてます。