なぜ私は東京へ行くのだろうか

さて、明日の業後からアキバ東京へ行ってくるワケなのですが。
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昨年に東京へ行った時は結婚式とかの用事があったのですが、今回は特に用事も無く、ただ遊びに行くだけです。5泊して月曜AMに帰ってくるのですが、大学時代の友人と飲む以外の計画は特に決めていません。いや、もちろんアキバへは行くだろうけど(笑)。
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2ヶ月前に飛行機のチケットを取ってました。こうしてまとまった休暇を取るというコトが、もしかしたらもうすぐできなくなるかもしれないという予感が無きにしも非ずなので、今のうちかな…と思ったのです。
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いや…そのですねえ…誰も私のことを知らないところへ行きたくなる瞬間があるのですよ。
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今回の休暇を取るにしたって、チケットを取った直後から念入りに根回しして、仕事が被らないように目一杯気を遣って、必要なコトは全部事前に片付けました。休暇を取るって無責任にはいかないし、むしろ生半可なら取らない方が楽に思えるくらいです。
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この私自身は、「ニート」になんてなれやしないな、と思うのです。
「なりたくない」「なるべきではない」のではありません。「なれない」のです。私は自分が「社会の役に立っていない」と自覚したら、たぶんもうそれだけでその状態に我慢できないでしょうね。
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私は仕事を「ゲーム」だと割り切ってます。それ自体に価値を見い出すというよりも…「人生を賭ける」からこそ、どんな内容であれ面白くなると思ってます。だからこそ、そこで「負ける」ことに対しては常に恐怖感があります。
なんだかんだ言って見栄っ張りな私のちっぽけなプライドは、そりゃ社長になりたいだなんて思わせないんですが、それでも「中の上」くらいには居たいな、と思わせます。
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例えば、私はスポーツは大方人並みですが、特にバスケに関しては苦手です。そこそこ上背はあるのですが、手先がさっぱりです。ですので、私はバスケをやろうと誘われても絶対に断ります(笑)。
人生ってそういうモノだと思うのですよ。誰も、自分が苦手な分野には手を出しませんし、そこにアイデンティティを見い出すことなどあり得ません。ある意味、そこに不幸な方向性を持ったのが「ニート」なワケです。そんな彼らは彼らなりの価値観とアイデンティティを持っているのでしょう。
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そしてもう一つ、私が仕事に対して考えているのが「対価意識」です。
「社会人」として働いている以上、私は「発言権」を得ることができます。それはバイトのレベルでは絶対に得られない実感です。
私は「発言する立場に無い」と自覚したら、こんな匿名のWebとはいえど、とても公けに向けて発言なんてできません。そんなに無責任でも恥知らずでもないツモリです。
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要は私のニートへの不満は「自分で食ってゆけない」「社会的責任という"対価"を支払っていない」という立場への不満です。「与えられど与えない」、そこに疑問を抱かない人間を私は軽蔑しますし、価値を認めません。
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とはいえ、私はそういう立場を「いいなあ」と感じることもまた事実なんですよ。繰り返しますが、私には「そういう生き方は出来ません」。やろうとしても出来ません。それだけのつまんないプライドに囚われてます。現実にそうなったら、諦めるより先に首を括るかもしれません。
せいぜい私は、たまに誰も知らない土地へ行って、日頃の喧騒から外れるくらいしか出来ないのです。にもかかわらず、仕事のファイルを持ってゆくところに、自分の中途半端さと苦笑を感じざるを得ないのですが。