閑話

私が自分のレビューを「主観的」だと思っている根拠の一つに、「レビュー自体、一つの方向性に恣意的に向けて書いている」からです。私は2/14の日記「批判論・パート1 - Judgeの華麗なるエロゲ生活」で、自分の文章が「批評」だと書けませんでした。そこにはそういう意図がありました。
例えば、本当に気に入った作品のシステム面がダメダメだったら?それが「私の作品に対する印象を貶めていない限り」、私は意図的にその部分を書かないことがあります。
「書かないこと」は「嘘ではない」というのは詭弁でしょうか?容量が500MBしかない短い作品の感想を書くのに、その「500MBしかない」という「確かな事実」を書くことは必ずしも必要でしょうか?もちろん、そのゲームを「容量1GB」と書いたら、それは"嘘"であり"間違い"で、良くないことだとは思いますが。
私のレビューは多分に恣意的ですので、褒めたい作品はそういう方向性で書いてますし、褒めたくない作品は逆の方向性で、印象に残らなかった「良い要素」を恣意的に書かないこともあります。もちろん、ここで恣意的に書かないような「印象を残さない」要素というのは、それこそシステムの使い勝手のような、作品のメインの部分では全然ないトコロの話です。
常体にするか敬体にするか、それだけで文章の印象はだいぶ変わります。基本的に私が敬体を使うのは、「常体にすると冷たい印象を与えすぎるくらいの棘のある文章」の場合が多いですね。
これは言い訳ですけど、「世の中の文章ってのは全てがそういう風に出来ている」のですよ。新聞に書かれていることは"事実"ですか?世の中の全てのコトを網羅しているわけではないのに?新聞社には明確な「意志」があります。何を一面に持ってくるか、どんな記事を掲載するか、全ては恣意的です。
だからこそ、読む人の取捨選択って凄い重要だと思うんですよね。書き手の私が言うのは無責任に聞こえるかもしれませんけど、そもそも私の文章自体が一種のプロバガンダであるってことには気付いてほしいなあ…と。
注:2/17の八坂さんのコメント自体は、私の言葉足らずに起因することですんで、それがどうこう言うつもりは全くありません。それとは別の、他人の文章をどう読むか、って話です。
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あともう一つ、「信者」って言い方について。
私がこの表現を自ら使うのは、人に言われる前に先回りして言ってしまおうと思ったからです。「信者」の意見は「主観的」で「視野狭窄」で当たり前なんですよ。「この文章は主観的で恣意的なモノですよ〜」って宣言なんです。
その割に、私は、「教祖」の創作物を無批判に受け入れるワケではないことも、昨日自覚しました。