「そうか、これで良かったのか」という実感

唐突ではあるが、私が全メディアの中で最も好きと思える場面の一つを挙げてみる。出典はなんと『ぼのぼの』。ラッコのぼのぼのが出てくるアレである。

(『ぼのぼの』8巻より抜粋。若干、省略したところがあります。)
ヒグマのカシラ「今さらオイラたちにどんな『新しい方法』があるってんだ。教えてくれよ。どいつもこいつも子供だましのいつか見たようなことしかやれやしねえ。もう『新しい方法』なんてねえさ」
スナドリネコ「そうかもしれない。おまえがおまえである限りな」
カシラ「オイラがオイラでありえないんなら、『新しい方法』にどんな意味があるってんだ」
スナドリ「おまえがおまえでいたいんなら、『新しい方法』にどんな意味がある。おまえはオレになれるか?」
カシラ「そんなことできるか、ばかっ!じゃあ聞くがよ、おめえはオイラになれるかよ」
スナドリ「なれるよ」
カシラ「なんだと〜?なれる?」
スナドリ「そうだ」
カシラ「おめえがオイラのようなやつになれると言うのか?」
スナドリ「そうだ」
カシラ「そりゃおもしれえ。やってみろよ」
スナドリ「今はやれない。しかしやろうと思えばできる」
カシラ「やろうと思えばやれるからそれを信用しろってのか?」
スナドリ「そうだ」
カシラ「自分が自分であることなんかたいしたことじゃないのか?」
スナドリ「そうだ」
カシラ「オイラより悪いヤツにもなれるか?」
スナドリ「なれる」
カシラ「おめえを好きなヤツが誰もいなくなってもか?」
スナドリ「そうだ」
カシラ「…ゴンゾ、帰るぞ」
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カシラは後でこう呟く。「かっこいい悪いをヌキにして生きられると思うか?え?生きられやしねえよ、オイラたちはみんなバカヤローだからな」と。

私はこのシーンを「理解」するのに、本気の本気で10年かかった。
この作品をナめてはいけない。私の人生に初めて影響を与えた書物は他でもないこの『ぼのぼの』なのだ。一見子供向けに見える作品だが、作者・いがらしみきお自身にその意図はない。作者が結婚して子供が産まれて歳を取っていく中で抱く彼の感情が登場人物に投影されており、彼の後を追いかけている私にとって、この作品の「理解」こそが、まさに「成長すること」であった。この8巻の後半のアライグマくんのおかあさんが登場する話では日常を生きるアライグマのオヤジの姿に感銘を受け、ボーズくんのスタンドバイミーのお話には素直に共感し、フェネギーの「あ〜あ」の話を実感できるようになったのはついこの間のことだ。
ぼのぼの』1巻の初版は1988年。今月に出るのが26巻。発刊ペースはすざましいまでに遅く、そこで描かれるのはまさにいがらしみきおの人生そのものではなかろうか。