協調性と我侭

わたしは周りから見れば、協調性のある人間に見られていると思う。
だけど実際は、自分で、もの凄く我侭な人間だと思っている。
私は大学に入って独り暮らしを始めてから、一気に我侭になった。いや…あの大学を選んだ理由の大部分が、「独り暮らし」にあったことを考えると、そのまえから潜んでいたモノが具現化しただけかもしれない。
私は、休日、決まった時間に起きない。これは誰にでもあることだとおもうが、決まった時間に食事をしない人間はそれほど多くないだろう。8時に起きてすぐ食べたり、夕方まで何も食べなかったり。それは全て「その時の気分次第」。大学4年の授業に行かなくなった時には、17時頃暗くなりかけてから起床・まず店が開いているうちに買い物へ行き、テレホタイムを完全に満喫してから寝るという生活を1ヶ月ほどした時期があった。
私は、「この日だからこうする」というのが大嫌いだ。誕生日やクリスマスなどどうでもいい。そんなモノに一喜一憂する奴には、「普通の日ってそんなにつまらないか?」と言いたくなる。
私は、他人から貰った食べ物を、まず食べない。大抵は賞味期限が切れて捨てる。私は、「食べたいと思うモノしか食べない」のだ。好き嫌いというよりも、私は私が食べるであろうモノだけを買ってくるが、貰い物はそのサイクルに乗ることが無い。毎日誰かに食事を作ってもらうなんて「もっての他」に思う。
私の部屋は散らかっている。見るも無残に散らかっている(笑)。むしろその様は「整頓」という概念に牙を向くかのようだ。「誰の目から見てもわかる状態」が最適化だとは全然思わないタイプ。
私は仕事を他の同僚に振らない。他人に分け与えるくらいなら、自分で残って片付ける。これは…そこまで同僚を「信用してない」というのが真相だろう。自分の求めるアウトプットが得られるか疑問だし…それ以上に自分の求めているモノを相手に正確に伝えるのが…面倒臭い。
 :
こんな私に、他人はなぜ「協調性」を見るのか。(もちろん冴えている人は真相に気付いてるのだろうが)見事なまでに「外は外」と割り切っているから。例えば会社の同僚と遊びに行く時、私は自分が何をしたいかほとんど主張しない。「自分のしたいことが他人にも楽しいとは思っていないから」。もちろん、他人にとって楽しいことは自分にとって大して楽しくないが、まあそんなモノだと割り切っている。例え私がしたいと思ったことをやっても、それに馴染めないであろう他人がいる以上、「気まずい」。なら、本当に楽しみたいことは独りで楽しめばよい。そう思う。
12/16の携帯から書いた日記、アレはまさにあの通り。私自身の思いから言えば、「自分の好みを他人に押し付けない人間」「自分の仕事を他人にさせようとしない人間」が、「いかにその他人を信用していないか」が理解できる。
 :
そんな私は、今日も一人で日記を書く。
私はそこまで他人を追い求めようとしていない。今は。そりゃ、「常葉愛クラス」の女性が周りにいれば違うんだろうが、残念ながらそんな素敵な存在はそう在り得ない。