ねじまげる

『Forest』を他人に勧める際の主流意見として、「英国童話に詳しい人なら楽しめる」というのがあるのですが、私は今一つコレに同意しかねるのです。
この作品の初回プレイ時に知っておくべき作品は、『不思議の国のアリス』はともかく、『コッペリア』ただ一つだと思います。それも…中身まで知る必要はなく、タイトルだけ知っていればそれで充分でしょう。
というのも、『Forest』の登場人物のうち、[森]の元ネタのほとんどを知っている人って灰流くらい。アマモリですら、それに「ザ・ゲーム」まで気付かない。刈谷は比較的知っているけど、この人は知らないモノはどうしようもない。黛はティンカーベルくらい。九月に至っては下手をすると何一つわかってない…でも、彼女は「踊る」し、「読む」ことにかけてはピカイチのプレイヤー。
[森]ってのは、実はそーいう存在。元ネタがあるように見えて*1、実はそれを自己流に解釈しています。それがはっきりするのが、「ペッコリア」の存在なワケです。
『Forest』は、この「ザ・ゲーム」までがプロローグ。「物語」は、ここから始まるのではないかと、私は思っています。
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「パロディ」は、「批判」で終わってしまうのではないかと思うんです。「じゃあどうするんだ」、ここに至るのは難しいんじゃないかと*2。逆に言えば、それが無いモノは「パロディ」に過ぎないんじゃないかと。
そして、例えば恋愛ゲーのパロディである『School Days』がどこまで評価されるべきなのだろうか、と。アレは一級のパロだと思いますが、言葉ルートを描けなかった…というより中途半端(整合性が無い)に終わった以上、パロを越えることは出来てません。これに、世界的な文学的価値を与えようなんて提案したら…それは「甘い」と言われても仕方ないんじゃないでしょうか。
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「曲解」という要素は非常に重要だと私も思います。「自己消化」と言いますか、他者の表現をそのまま受け入れるのは第一歩で、そこから自分の血潮になるようにしなければ…面白くない。
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とはいえ、実は1/15の日記で、私が最初に書いたのは、同日の『Heavens Feel』再プレイの感想でした。あまりにアレなんで割愛したのですが、改めてここに書くと、私の感想としては①半分くらいに編集していればもっと名作になったと思う②言峰綺礼がこの第三部に必要だったのか?…だったのですよ(汗)*3
なにせ私は『終末の過ごし方』を「短いと思わない」プレイヤーです。「濃度」がしっかりしていればそれでよいと思う方です。
この辺は、小説・マンガの延長からエロゲーに入って、ゲームとの連続性をあまり感じていない私だからなのかもしれませんが。

*1:「元ネタを使った意味」はご丁寧にも作中で書かれている。

*2:私が『Forest』を絶賛するのは、この[森]の描写…超一流の「パロディ」を経てなお、あの「これ以上ない現実的な」ラストシーンに至るからです。

*3:「血溜まりに咲く怨嗟の桜。夢ではない私の現実。ハッピーエンドは許されない。幾多の罪でその手を汚し、幾多の業をあの人に負わせた私が今更、『いつまでも末永く暮らしました』では――都合(ムシ)がよすぎるなんて、わかってはいるけれども。」…これは、先の「桜びより」でしゃあ氏が書いた一節です。きのこ氏からこの一言があれば、私は第三部を認められたんですけどねえ…。