これだけは"誰にも勧めない"。以下、完全な独文。

昨日、ふとした拍子に、自分の『Forest』レビューを読んでいたんだが、感想。
「よく出来ているなあ」(自画自賛)ま、No.1の作品なんだから当たり前なんだけど(笑)。
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『Forest』って作品のイイところは、他人の『Forest』評が自分と食い違っても「ああそうか」で終わることだ(笑)。ヘンに(私が)感情的にムキにならない。諦めが付く(笑)。
まあ、せっかくなんで(?)私の『Forest』評のポイントをまとめてみる。
以下、100%私の私見&ネタバレあり。
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正直言って、私と同じ見方でこの作品を褒めている人って、あんまりいないと思う。私も、最初の三ヶ月くらい(つまり、2004年度上期の「エロゲーは誰れのためにアワード」を与えた頃)は、他の人と似たような感じで褒めていた。それこそボイスとか下敷きの奥深さを中心として。
だけどその後、半年くらいして何かの拍子にスイッチが入った。私は、この作品の全てはあのラストシーンのために在ると思う。あの場面が無ければ、この作品の価値は半分以下だと思う。
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あの場面で、雨森と灰流はすれ違う。そのために、この物語は在るのではないか。雨森 望という一人の存在が、あそこへ至るまでの過程、それこそが、この物語ではなのではないか。
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私はもはや、この作品は、「ザ・ゲーム」のラストまではプロローグだと思っている。[森]とは、[リドル]とは、いったい何なのか?あれは皆、「夢」だ。魔女アマモリの描いた夢。彼女が、[リアル]から逃げるために創り上げた「夢」だ。
「ザ・ゲーム」までのリドルは不条理感と浮遊感が強い。この感覚はまさに「夢」。序盤で私が好きなのは「新宿漂流」のラスト。それまでリドルに呑まれノリノリだったアマモリが、帰路の電車の勢いと共にしぼんでいくところ。あの「夢から覚める感覚」こそが、前半のリドルの最大の見所だとすら思う。
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「ザ・ゲーム」が終わって初めて、この作品は「始まる」。「魔女と賢者」という、この物語の最も核となる関係がここで初めて示される。そして、[森]とは、[リドル]とはいったい何なのか、それが、ここで初めて示されるのだ。
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「ザ・ゲーム」以降のリドルが、明らかにそれまでと趣きが変わるのは偶然ではないだろう。[森]も[リドル]も、「世界」から一方的に与えられるファンタジーではないことがわかったのだから。「夢」であることを自覚した「夢」は、もはや自由な世界ではない。
それまでが、テキストとボイスの乖離に代表される、非常に感覚的な要素が強いリドルであるのに対し、これ以降はそれが極端に減る。そして同時に、アマモリの望む「幸せな結末」ともかけ離れてゆく。それは、アマモリの「夢」であった[森]ないし[リドル]の崩壊の兆しに他ならない。
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では、なぜ、[森]は崩壊するのか。しなければならないのか。
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その前に、なぜ、灰流は伽子を抱いたのか。雨森を抱かなかった灰流が、なぜ。
それは、伽子と雨森の間の、唯一にして最大の違いのためだ。
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「残された時間」の違い、だ。
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雨森は[森]に帰ってきた。現実に敗れ・頓挫し、再び、子供の頃の「夢」へと帰ってきた。
アマモリは、黛・刈谷・九月の三人とは決定的に異なる。この三人は、[リアル新宿]に生き、そこに自分の立ち位置を見付け、生きている。だからこそ彼女達は、[森]すなわち「夢」を、非常に客観的に見ている。
だがアマモリは、その「夢」を本気にしようとしている。この世界こそが彼女の生きる世界だと、本気で思いかけていたはずだ。
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その前にアマモリは、伽子と灰流が結ばれたことを知り、「崩壊」した。この[森]もまた、彼女を裏切ったと感じたからだ。
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彼女は、「語り手」ではない。
「聞き手」でもない。
刈谷のような「読み手」でもない。
「伝え残す」のでも「インスパイアされる」のでもない。
「踊る」のでも、ない。

自分のレビューから引用したのは初めてだが、じゃあ、「雨森 望」とは、何なのだろうか?黒いアリスは、「パドゥア」と言うのだが、その意味は、いったい何なのだろうか?

彼女はこの物語の絶対的主観的存在なのだ。
この物語は「雨森の」物語であり、他の何物でもない。

私はこう書いたが、これ以上の表現が思いつかない。彼女は、この物語の「本当の意味での主人公」だ。普通、物語の主人公というモノは、読者やプレイヤーに「見られる」ために存在していると言える。しかし彼女の場合は、それを超越した「主人公」なのではないか。
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そして、あのラストシーン。
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雨森は、前を見て歩いている。彼女はもう、[森]を見ていない。
なぜ?
彼女には、生きるべき[世界]が在るからだ。彼女の生きるべき世界は、もはや[森]ではない。それは、実際に生きる一人の人間の「歩き方」として、とても重要なことだ。
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なぜ、灰流は雨森を呼び止めずに見送ったのか。
[森]は、もちろん、否定されるべきモノではない。それは、誰しもが通ってきた道なのだから。でも、それは、いつまでも執着するモノでもないはずだ。なぜなら、私達には、もっと新たな「お話」が待っているはずだからだ。
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森の永遠の住人である黒いアリスは最初に問い掛ける。
「ねえ?お話を聞かせて?」と。
では、「"あなた"のお話」とはどんなものだろう?では、「"私"のお話」とは、どんなものだろう?私の人生には、どんな「お話」があるんだろう?
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最後に、後ろを振り返らず、前を見て歩く雨森の姿は、そのまま、素晴らしき人間賛歌なのだと思う。[森]は、色鮮やかで、魅力溢れる世界だ。でも、雨森には、私達には、「それはまた、別のお話」がいつでも待っている。そういう、もの凄く前向きなメッセージを、この作品は与えてくれたと思うのだ。
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私は他の作品と同じく、この『Forest』という作品を、まず第一に純粋なシナリオ性で褒めている
そして、シナリオを支える部分もまた完璧。むしろ、「このシナリオを描くため」には、「この演出」が必要なのだ。
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このシナリオを創る上で、[森]の描写が並大抵ではダメなことは想像が付くだろう。単純な妄想の域を遥かに越えた世界の創造を果たさなければならない。それを乗り越えるからこそ、意味が在るのだから。
基本的にアマモリの"想像"であることも含め、「下敷き」を用いたコトは悪くないが、今作の場合はその出典と使い方が並大抵ではなく、他の追随を全く許さない。
また同時に、[森]とは「夢」であり、その浮遊感を表す上で、あの独特のボイス演出や不整合な立ち画の使い方は、言わば「必然」であったとも言える。
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コレは私の完全な想像だが、この作品は「ラスト」が先に在って、それをどう魅せるかを追求した結果が、[森]になったのではないかと思う。
この辺、他でもない『腐り姫』に似ていると思う。
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見たところ、『Forest』を褒める人の大半は前半の[森][リドル]部分で評価するし、ダメな人もそこで投げ出している。確かにアレは無茶苦茶にインパクトが強くて、私も最初はあの印象ばかりだった。
だが稀に、「ありふれた物語」とこの作品を称する人がいる。彼らと私が同じ部分を見てそう言っているとは思わないが、実は今、私も同じコトを思う。この作品は実に普遍的なテーマの物語だ。一言で言えば、この作品は「人間の可能性」を問う作品なのだから。
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こんな普遍的なテーマは他に無い。フィクションであるエロゲ(に限らず物語全般)で、そんな単純なコトを語るのは、非常に難しい問題だ。
それを、この『Forest』という作品は、対極とも言える「フィクション≒想像」を究極まで突き詰めることに加え、最高に高い視覚的・音声的・文章的演出力でもって見事に描き上げてみせた。
私は、この作品は、他とあらゆる意味で「格が違う」作品だと思う。
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なんだか、書いてみたらやっぱり思うことを全て言葉に出来ないし、これまで書いてきたことの繰り返しだとも言える。
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最初に書いたけれど、この作品を他の人が「やってみたい」と言っても、私は勧めません。私の感想に同意も求めません。
コレは本気の思い込みですけど、私は、この『Forest』という作品は、まさに私のために創られた作品だと思ってます。これまで発売された幾千もの作品のうち、一つくらいは、そう言える作品があってもいいじゃないですか。