出る杭は叩かれる

亀田興毅の世界タイトル戦は、微妙な判定の末、亀田の勝利となった。
いろいろ噂が囁かれている。もちろん真相は知らないが、日本全国で「疑問」の声が挙がっているようだ。



これを見て、日本人がただ日本人というだけで亀田の勝利をひたすらに願っていたわけでもないのかなあ…と。
現役ヤンキーを中心とする(←想像)亀田の生き方に共感する人よりも、むしろ、このクソ生意気なガキがボコボコに打ちのめされて、その時にどんなコメントをするかを見たかった人こそ、けっこういたんじゃなかろうか?
私もその一人でした(笑)。

確かに、今のLeafには無理なのかもしれないが

『フルアニ』(Leaf)の評判が芳しくない。
どうやら、シナリオライター名が最後まで明かされなかったのは、この作品にそもそもシナリオが存在しないからであったらしい。
先の『T3』を見る限り、今のLeafに萌えゲーを作ることは、もう不可能なのではないかと思っていたところ。でもそれにしても、定価がけっこう高かったからなあ…怒られても止むを得ないかも。


私の知る最高の麻雀プログラムは、『ねがぽじファンディスク』(Active)に付いていたヤツなのです。過去の作品のプログラムの流用ですが、2人打ち&4人打ちだけでなく、サンマまでこなしてしまう汎用性と、微妙な難度を変更できる調整度合いまで、一般用含めても相当の高レベル。確かにCPUの打ち手は下手糞ですが、それは現代技術上しょうがない部分ですしね。
でも、Leafの用意したプログラムは、そこまで行っていないようですね。これはマズい。だって、『ねがぽじファンディスク』ってことは、当然、ライターである枕流氏があのプログラムを知らないワケがないんですよ…。


それか、ライアーソフトの『じゃんまげどん』みたいに、いっそのことぶっ飛んだモノを作るべきだったかもしれません。

人を選ぶ名作

某所の私の『CARNIVAL』レビューへのリンクを見て、再プレイしたくなった。



リサは呟く、「世界は人間を愛していない」と。それは、「好きでも嫌いでもない」のだ。この作品に在るのは、「在りのまま」。誰も彼らを罰してくれないし、誰も彼らを赦してくれない。ただ、互いの個々のままに、在り続ける哀しさ。


私はこの作品について、小説版を経て加筆はしたがリライトはしていない。
基本的に私の文章は、「ここがこーいう理由で面白かった/不満でした」なので、「私的解説」に近いのだが、この『CARNIVAL』については、それをする必要はあまり感じていない。
この作品は、「在るがまま」を描いているし、「感じたまま」が、評価なのではないか。私は、皮肉でも嫌味でもなく、この作品を「感じられない」人が、幸せな人だと思う。その人は、この作品を、「在るがまま」なんて思ってはいないだろうから。フィクションだと感じ取れるということではないかと思うから。





その分、私は『SWAN SONG』に不満を感じるのかも。
ハッピーエンド/バッドエンドの二分論は、この『CARNIVAL』での無機的描写とは一線を画する。「在りのまま」ではなく、結末へ向けた作者の意図を感じてしまう。その分、「純粋さ」を感じられないのだ。
また、『CARNIVAL』を描いた人が、田能村や雲雀の「存在」を信じているかというと、甚だ疑問。それは理想であれど、現実には存在しないと、他でもないこのライターは思っているのではないだろうか。
つまり、『SWAN SONG』は、「物語」なのだ。「作られている」。私にはその印象が強く、第二作としての妥当性は理解できるけれど、第一作『CARNIVAL』を上回ったとは感じていない。

現代戦争論1

私が『群青の空を越えて』(light)という作品について、良く出来ていると思ったところは、私の知っている過去の冷戦期の戦争の「次」のイメージを志向しているところ。


現代社会では先進国同士の戦争は起こり得なくなった。


私は、冷戦時代を実際に見ている。まだ小学生だったが、戦争が現実に起こり得る可能性が叫ばれていた時代を知っている。その頃のイメージでは、戦争を引き起こすモノはイデオロギーだった。
でも、実際に戦争を止めたのは、人道主義より何よりも、破壊力が大きくなりすぎて、勝利によって得られるモノよりも反撃によるダメージの方が大きくなってしまったこと。その黎明期として、核を持ったまま睨み合った冷戦期がある。それはまだ、表向きはイデオロギーの対立だった*1けど、その時代は、終わったのだ。


『群青』序盤のシナリオで、物語の全貌が見えないまま、戦争は続く。「荻野理論」に理想を見い出し、円経済圏構想を夢見て、学生達は死地に赴く。でも私は、これに違和感を感じずにはいられなかった。「イデオロギーでは死ねない」というのは今の私の実感だし、多くの人もそうではないかと思っている。
また、「戦争」にもかかわらず市街地を全く破壊しない戦いというのは、戦術上在り得ないのではないかと思った。しかし、逆に言えば、「市街地を破壊する」ような暴挙が現実化するのであれば、そもそも戦争という方法は取り得ないのではないか。


象徴的な場面がある。加奈子シナリオの地上戦で、司令部が電気の遮断を電力会社に申し入れるも、断られる場面だ。私は初読で、「そんなわけねーだろ」と思った。インフラの根幹も抑えられないでこいつらは戦争しているのか、と。でも、違うのだ。東京電力は世界最大の電力会社だ。そんな企業が学生なんぞに抑えられているようでは、日本経済はそもそも破綻している。東京電力は学生の動向に関わらず営業活動を継続し、電力遮断…つまり「商売の停止」を拒否するだけの強い立場を持っている。
これは後のシナリオで次第に見えてくるのだが、関東独立を狙ったのは、円経済圏の理想を求めるのではなく、首都圏の富の独占を狙った財界人だった。彼らは、そのために学生を焚きつけた。そしてこの戦争の戦死者は、本来的に戦う使命を持った自衛隊員と、「荻野理論」の「理想像」に踊らされた学生が大多数であり、一般市民や財界人は戦闘に関与しない。
この「if」の作り方は上手いと思った。もちろん今の日本で戦争は起こっていないワケだから、これはフィクション。でも、その「if」が起こり得る可能性は、「経済的利益」が無ければ在り得ないのだ。この作中の戦争は、純粋な経済的動機から生まれている。
その「見せ方」も見事。序盤で、この戦争の影の本来の野望は見えない。学生達の中しか描かない序盤の若菜・加奈子シナリオは、その学生達の外に存在する、彼らを利用して利を求める人間の姿を描かない。そして、その後にシナリオに順序を付け、夕紀・圭子という「外部」の人間が加わる二つのシナリオで、学生達の姿に対し、客観視がなされる。そして、「真相」を描くグランドルート。「荻野理論」と、この戦争を引き起こした元凶。最後に社は言う、「何の為に戦っているのでしょう」と。さあ、学生達は、何の為に戦っていたのか。


この作品の「戦争」の描写は、「今の世で戦争が起こりえるif」の描写が見事だと思う。現状の世の中で最も大切とされているモノと、戦争を忌避する理由。それらを「経済」に見い出し、「戦争」と「経済的利益」が相反しないシチュエーションがどういう状況下で発生するかという点を踏まえた、一つの仮説。日本の経済活動が継続し、「市民」に被害を及ぼさない限りなら、「戦闘」は必ずしも否定されない。人道主義は、「妄信」によって乗り越える。その担い手となるのは、経済に寄与することなく、「悪さ」を知らない「子供達」。


この作品は、「過去の戦争」を描いていないのだ。「現代日本で戦争が起こり得る可能性」を描いている。それは、当然ながら冷戦時代のイメージと一致するはずがないのだ。そこを形にしてみせた様は、見事。
もちろんそれはフィクションであって、仮説でしかない。荒い箇所もまま在る。でも、それが寸分の隙もない描写であったら、それはそれで恐ろしいコトだから、良しとしたい。

*1:今から思えば、そのイデオロギー自体が、経済的損得を抜きには語れないのだろうが

素晴らしい、素晴らしいよ『サガフロンティア2』。久しぶりに再プレイしたら感動した。



この作品は、スクウェア作品の中では「失敗作」としての認識が強いだろう。
ある意味「シナリオしかない」珍しい作品。まともにストーリーを読むだけなら、数時間で終わるんじゃなかろうか。「場面」が無茶苦茶な勢いで抜け落ちている。主要人物であっても台詞の数は数個とかいうレベルがザラに在る。正直言って公式攻略本である「アルティマニア」を入手せずに楽しむのは無理。今ではアルティマニアの方が高値が付いている。

だが、このあまりに広い空白が、この物語に果てしない「奥行き」を与えているのかもしれない。何せ、場面が全然無いから、それ以外の部分は如何様にも「想像」できるのだ。
例えば、13世とレスリーの関係。リッチとユリアが一緒に居た理由。サルゴンがエレノアと旅をしていた理由。こういった「気を持たせる」(笑)場面は本当に何も描いてない。

それでもその「奥」が見たいと思わせる何かは、数少ない台詞が強烈な印象を与えるものであるからだろう。無駄な台詞なんてほとんど無い。

そういう意味では、この作品が確信犯だったら凄い。たぶんその可能性は無いけど(笑)。

「萌えゲー」否定派として名高い(?)私だが、「純愛」については否定するつもりが微塵も無いばかりか、むしろそれを渇望してエロゲをやっているような気もする。
「萌え」と「純愛」の差は、単純にその「深度」のような気がする。



前に、こんなことを書いたことがある。

「永遠の愛は存在するかって?」
「愚問」
「永遠じゃない愛なんぞ存在するのものか」
「最終的な結末はどうであれ、それが在る間は永遠を志向しているはず」
「そうじゃないモノは愛とは呼べない」
「少なくとも、私が求めているのはそういうモノだ」

そんな私は、今2○歳だが、未だに結婚していない。もっと言えば、する予定も無い。
その理由は、私が「永遠の愛」を見付けていないからだ。



「そんなモノはどこにも無い」という人もいる。



人の感情は変わる。でもそれは、その人の「本質」を見抜いていなかったからではないか?
人は歳をとり、老いてゆく。でもそれは、その人の「外見」に惹かれているからではないか?
「その人の在り方」を愛するのであれば、それが、年月共に薄れるということがあるのだろうか?



それが、「あるはずだ」が半分、「あって欲しい」はもう半分だろうか。

比べるのは可哀想か

中国人を怒らせたとかいうエロゲ。まあ、ネタだろうが。


だが、本当に怒らせたのであれば、それはそれなりに非はあるんじゃないかと。


日本には、『行殺♥新選組』というエロゲがある。作ったのはもちろん、ライアーソフトだ。日本人の心を体現する新撰組を美少女に置き換えて、エロシーンを描いてしまったエロゲである。
ただ、一つ言えることは、この『行殺♥新選組』は、非常に真面目な作品なのだ。この作品は、製作者ですら懸念していた新撰組ファンの感情を、見事に受け止めた作品なのだ。プレイして思ったが、この作品は「新撰組を描いている」。それを単に設定のネタにするのではなく、歴史的人物への敬意と思い入れをもって、作品を作っている。
彼らが描いたのは、新撰組そのもの。局長で描いたのはまさに「死に様」であって、あのラストの「ドラゴンステーキ」ですら生き返るような生易しい描写をしない徹底ぶり。副長は、華々しい場面だけでなく最後に函館で散るところまで描く。カモちゃんには奔放さの裏の、他の隊員との確執を描く。ただ一人生き残ることのできる永倉。モンゴル行きという元ネタまで披露する佐乃。そして何より、『ふれっしゅ』で追加されたへーのシナリオは、まさに藤堂平助の運命を描くためのもの。
これなら、「怒られる」余地など無い。


で、先の『恋姫†無双〜ドキッ★乙女だらけの三国志演義〜 』。
これが、「三国志」ファンをうならせるだけの作品になるのだろうか?中身を見ないと何とも言えないが*1、それは難しいような気がする。
要は、歴史上の人物を使うこと自体が問題なのではなく、それに対する姿勢なのだ。「歴史」というのは、他人と共有するもの。「社会」や「政治」、「法」といったものと似た位置にある。一人の人間が茶化すことが、「個人」のレベルに収まらない。それは「共有物」であるからだ。

*1:『行殺』のあのOP曲「見つめて♥新選組」を聞いた段階で、こんな真面目な作品だと誰が予想できただろうか…。